富士山以来のすごーく久しぶりのブログです💦
富士山を登ったのは2022年7月、いま2023年が終ろうとしている。富士山…すでに遠い記憶です(^_^.)
今回は11月の山陰ツアーを振り返ってみます。
事の始まりは、出雲大社の神迎神事からでした。
ご存知のように、旧暦の10月は神無月の別名がありますが、島根県だけは神在月。
全国の八百万の神々が出雲の国に集結するため、他の地方は神様がお留守になる不用心な月間です(苦笑)
この神事を見てみたいと当社のリピーター様が以前からずっとおっしゃっており、コロナ禍を経て3年ぶりぐらいにようやく本気で計画。
東京から日本海側の島根へ行くには、飛行機ならすぐですが、列車移動はけっこう面倒。
そこで、せっかく行くのだから、他にも立ち寄りスポットが何かないかとあれこれ調べていくうちに、まずは備中松山城、そしてこの際、隠岐島まで行ってみよう!と、離島好きの私は大胆なプランに増幅していきました。
綿密に計画をたてていくと、お城、出雲大社、隠岐島と、各地ともそれなりに時間を要することが分かり、結局10日間にもわたる壮大なツアーが完成!
国内で10日間は長いですねー😅
普通のツアー3回分ぐらいに相当し、プラン練り始めてからツアー準備完了まで、9か月にわたり、延べ20~30日分ぐらい時間を費やしました💦
まずはお城から。
備中松山城は現存天守12城の中で唯一の山城です。
公共の交通機関でも行けなくはないのですが、地方では当たり前のようにとても不便そう。
ちょっと高くなりますが、機動性を考慮して、やっぱりレンタカーで行くことに変更。
すると欲が出て、途中の備中高松城(他のリピーター様が教えてくれた)と、鬼ノ城(備中高松城を調べていて発見!)にも行くことになりました。
1日目は岡山駅まで新幹線、そこからレンタカーでせっせと走り、まずは備中高松城。
ここは秀吉の水攻めで有名なお城跡。
水攻めと言えば、「のぼうの城」の舞台となった埼玉・行田の忍城も有名です。
備中高松城は、今は遺構を利用した城址公園のようになっていて、資料館ガイドさんにお願いして簡単に案内してもらいました。
どこに行ってもありがちですが、ガイドさんはあれもこれも知ってもらいたくて、予定の時間を延長して解説してくださいます。その気持ち、とても嬉しいですね。
最後にひとつ「領民思いのお殿様を自刃に追いやった秀吉のことを、地元の人たちはやっぱり恨んでいますか?」と質問。「そういう悲しい過去はあったが、秀吉というビッグネームのおかげでこの城跡も着目して遠くからも訪問してもらえるので、その点には感謝していると思う」と。なるほど、なかなか複雑な思いなんですね。
そして予定時間が30分過ぎ、次の約束があったので、まだ話足りない様子に申し訳ない気持ちになりながらも、備中高松城を後にして次の鬼ノ城へ急ぎます。
鬼ノ城は、備中高松城を調べていて、偶然発見しましたが、写真や説明文を見た瞬間、「行きたい!」と心を揺さぶられました!
こちらも奥深い山に立ち、戦国時代よりずっと古く謎が多い山城だと。
ミステリアスと聞き、ゾクゾクします!
「時間が許す限り日没までしっかり見たい!」とこちらも現地のガイドさんに案内をお願いしました。
土曜日でメジャーではない場所とはいえ、それなりに訪問者がいることに少々驚き。
歩みの遅い我々の後ろを歩く親子3人組に「良かったら一緒に聞きませんか?」と声をかけて合流。小6と中1の男の子で、お母さんと一緒にガイドさんの話を熱心に聞き「自分たちだけだと見落としそうなポイントがたくさん分かって良かった!」と。満足してもらえて良かったです。遺構の最終ポイントまで行って折り返し、すっかり打ち解けた中1の男の子が急に饒舌になり、地元情報をあれこれ話し始めました。
そのうちのひとつ、特急やくもの現行の車両が間もなく終了すると。
381系の車両は国鉄時代から走り続ける国内唯一の特急なんだそうで、中1男子は「なくなる前にもう1度乗っておかなきゃ」と言ってました。
この子、凄いな、もしかして既に鉄っちゃんか?(笑)
実は我々、何も知らずに帰りは「やくも」を予約していた。この親子に出会わなければ、このまさかの貴重なチャンスを何も知らずにやり過ごしていたところだった!!
この旅、最初の不思議な出会い。
やはりミステリアスなお城のパワーか?
翌日(2日目)の備中松山城、翌々日(3日目)の松江城、いずれも地元ガイドさんが張り切って詳しく案内してくださり、とても充実しました。
どのガイドさんも最後におっしゃるのが「お客様(我々のこと)がけっこう詳しくて、案内のし甲斐があり、こちらもすごく楽しかった」と。そのように感じていただけて、我々も光栄です!
【備中松山城】
【城下町 高梁】
高梁川と備中松山城との間に広がる城下町は、鎌倉時代から続く歴史と伝統の町。ここは山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する交通の要衝だったため、戦国時代には激しい争奪戦が繰り広げられたようです。関ヶ原の戦い後に安芸の毛利氏と備前の宇喜多氏が備中から退き、小堀(遠州)氏が着任してから城下町の建設が本格的に始まったそうです。
時代が進み、幕末の大政奉還に参画した当時の藩主・板倉氏を支え、殖産興業など様々な施策によって10万両の大借金を7年で返済し、さらに10万両を蓄財したブレインの山田方谷も高梁のキーマンだと知りました!(こんな凄腕の政治家や役人、現代にほしい!!)
この町では、武家屋敷のある通りでは「町」を「ちょう」と読み、商家が並ぶ通りでは「まち」と読むそうで、それが全国どこでもそうなのかは不明。
山陰と山陽を結ぶ交通の要衝ということから、かつて倉敷の玉島港(北前船の寄港地)から荷物を運ぶため高梁川を高瀬舟が往来しており、今でも常夜灯が何か所かに残っているそうです。(北前船ファンの萌えポイント!)
今回は時間切れで行けませんでしたが、高梁市はベンガラ(朱色)の屋根で有名な吹屋地区があり、いつか訪れてみようと思っています😊
【松江城・小泉八雲・美保関】
松江城も現存天守12城のひとつで、松本城などと同じく国宝です。
以前、弾丸で山陰山陽4県を駆け抜けた時、そんなこと気にも留めずにスルーしてしまったお城だったので、今回は抜かりなくリベンジ訪問。
高くそびえる石垣に囲まれた屈強なお城ですが、ガイドさんの話では、たしか、他の藩の攻撃に備えて頑丈に作ったが、結局誰もせめて来なくて戦争でも被害に遭わず、運よく現在までその姿を残すことができたと。今となってはラッキーと喜ぶべきでしょうが、当時のお殿様、やる気満々を削がれてちょっとガッカリだったのかも(笑)
そして松江の全国的な有名人といえば、小泉八雲ですね!
彼の写真が横顔が多いのは、左目を失明しており、そのコンプレックスから正面から描かせないと聞きました。
そして前回は、松江城はスルーしたのに、こっちはちゃんと行った美保関へ再び!
なぜなら私は灯台が大好きなので、岬を見つけるとどうしても先端まで行きたくなるのです(笑)
前回は5-6年ほど前、カフェなんてなかったはずですが、久しぶり来たら小じゃれた感じに変身していました。
その後に行く予定の隠岐島が見えるかもと目を凝らしましたが、本当にうっすら見えた気がします。(スマホのカメラではちょっと無理…)
そして前回は見落としてしまった青石畳通りをチェック!
この地域も北前船の通り道だったので、水に濡れて青緑になる石と言ったら福井の「笏谷石」でしょう、とドヤ顔で思っていたのですが、神社前の通りには笏谷石が使われているらしいが、青石畳通りは周辺の海岸から運ばれた同類の凝灰岩なのだそうでした💦
ちなみに、美保関は島根県で、対岸の境港は鳥取県。地図を見るとかなり接近しており、どちらも同じ県だと勘違いしてしまいそう😅。ただし、風土記のように能登から切り取られた訳ではないことは確か(笑)
前半のお城シリーズは、ちょうどシーズンの松葉ガニを、対岸の境港で美味しくいただいて締めくくり👍
vol.2へ続く(^^)
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